こんにちは、國本ひろみです。
夏目漱石の「夢十夜」という小説の中に、
東大寺南大門の金剛力士像を彫った「運慶」について書かれたくだりがあります。
第六夜。
大勢の野次馬にも心乱されることなく、大胆に仁王像を創り続けている運慶を見て、
「能くもあの様に無造作に鑿を使って思うような 眉や鼻が出来るものだ」と思わず感嘆の声を漏らすと、
「なあに、あれは眉や鼻を愁で彫っているのではなく、あの通りの眉や鼻を もった仁王の顔が木の中に埋まっているのを、
鑿(のみ)と槌(つち)を使って、その仁王の顔を彫り出しているだけのことなのだ」と
一人の若い男が「自分」の 耳元で囁いた。
これは、小説の中の話ですが、
なんと、ミケランジェロも同じようなことを言い残しています。
「能くもあの様に無造作に鑿を使って思うような 眉や鼻が出来るものだ」と思わず感嘆の声を漏らすと、
「なあに、あれは眉や鼻を愁で彫っているのではなく、あの通りの眉や鼻を もった仁王の顔が木の中に埋まっているのを、
鑿(のみ)と槌(つち)を使って、その仁王の顔を彫り出しているだけのことなのだ」と
一人の若い男が「自分」の 耳元で囁いた。
これは、小説の中の話ですが、
なんと、ミケランジェロも同じようなことを言い残しています。
「全て大理石の塊の中には予め像が内包されているのだ。彫刻家の仕事はそれを発見する事」
「大理石の中には天使が見える、そして彼を自由にさせてあげるまで彫るのだ」
「大理石の中には天使が見える、そして彼を自由にさせてあげるまで彫るのだ」
この言葉をはじめて聞いたとき、とても感銘をうけました。
やっぱり「ある」んだー!
やっぱり「ある」んだー!
そこに「ある」んだー!!
この作業は、私がいつも手相を見ながらしていることではないかー。
運慶とミケランジェロと、並んじゃったよ~(笑)